ベヒシュタイン生誕二百周年記念
メルヒェン・シンポジウム報告

                     

                                メイン会場のブラームスホール


2001年11月23日と24日の2日間、ベヒシュタインが育ち、生きた町、マイニンゲンで、ベヒシュタイン生誕二百周年記念
メルヒェン・シンポジウムが開かれました。

今年は生誕二百周年を記念したベヒシュタイン・イヤーとして
年間にわたり、メルヒェンの語りの会、ベヒシュタインの
足跡を巡る散策の会、子どもたちの創作童話コンクール、
童話映画の上映、記念展示会、チューリンゲン歴史協会
によるシンポジウム、メルヒェンに関する様々なセミナー、
ベヒシュタインに関する本やベヒシュタイン作品集の出版など、
様々な行事が行なわれています。
このシンポジウムもその一環として開催されたものです。

私はインターネットでマイニンゲンを検索して、このシンポジウムを
知りました。絶対行きたい!と思い、学校と生徒たちに
話してお願いし、8日間休ませてもらって行ってきました。

シンポジウムはマイニンゲンの領主の城であった
エリザベーテンブルク城で行なわれました。
マイニンゲン市(人口2万5千人)が同じチューリンゲン州にある
エアフルト大学の後援を得て開催したものです。


2001年11月23日(金)

11月23日は、10時からの受け付け、11時からの開会式に続き、
昼食(会場でのビュッフェ形式)とコーヒーブレイク(やはり会場で
クッキーつき)を挟んで、6つの講演が行なわれました。
ドイツの各大学の研究者によって、ベヒシュタインの文学上の位置や
彼の語り口の特徴・性格、子どもたちの童話や童話的なるものへの
関心についての調査報告、文化遺産としてのメルヒェンの語りの意味、
童話作家の大先人バジレとドイツ童話への影響などが
語られました。

なかでもメルヒェンの語りについての講演は非常に興味深いものでした。
クリスティン・バルデツキイ教授は語りの実践者でもあり、
語り手と聴衆の間に作られていく濃密な空間の意味、
そしてそれを作っていく語り手の役割とそのために必要な能力についての話には目を見張るような大発見がたくさんありました。

いつだったかグリム書房の掲示板でも、母親(あるいは父親、
祖父母など)が子ども(孫)に話して(あるいは読んで)
聞かせるのがやっぱり一番いいのではないか、
たくさんの子ども達を前にする読み聞かせや語りの
意味は一体なんなのだろう? という問題が話題に
のぼったことがありましたよね。

私もその疑問をずっと持っていました。
で、語りについてだけですが、それが分かったような気がしたのです。

身近な大人が子どもに読んだり、語ったりする時に一番大きな意味を
持つのは、お話という行為を通しての愛情確認だと思うのですが、
聴衆を前にする語りについて、バルデツキイ教授は、語り手は自分が捉えたその話の世界を語るという行為を通して個々の聴衆の想像力を刺激し、膨らませ、聴衆一人一人が各々の想像力によってその話の世界を
創造していくのに力を貸す、というのです。

語り手の世界は聴衆の個々の想像力の世界に入り込みながら、
同時に彼らの個々の世界の創造を促す力となります。
語り手はまた聴衆の心の状況を感じ取り、聴衆が創造しつつある
世界をさらに広げるために、その瞬間にもっとも有効な語り口で
語ります。こうして語り手と聴衆の間には共に、けれども各々が
独自の世界を創造するという、独特の共有空間が生まれます。

このようにして生まれた濃密な空間の中で、聞き手は同席の人々と
また語り手と、心を通い合わせながら同時に自らの想像力をも
羽ばたかせる、という体験をするのです。

一種演劇と似た部分がありますが、演劇が作者、演出者、俳優、
舞台装置、衣装などを含めた全体で、一つの世界を提示するのに
比して、語りにおいては聴衆の各々が一つの話を聞くことを通じて、
受け入れつつ、同時にそれぞれの世界を創造することを
目指しています。もちろん聞き手は子どもばかりではありません。

こう考えると、「語り」の意義の大きさには計り知れないものがあります。
私たちは、本があるのだから、テレビや映画があるのだからと、
語りを過去のもののように片付けてきたけれど、
この「語り」の持つ力を再発見する必要がある、そして「語り手」を
育てていく必要がある。こんなに素晴らしい世界をなぜ捨てようなどと
いうのでしょうか、というのが、講演の要旨でした。

彼女はこの「語り」の実践と研究によって、今回設けられた
チューリンゲン童話伝説賞である「ルートヴィヒ・ベヒシュタイン賞」の第一回受賞者となりました。

夜はマイニンゲン人形劇場での公演を鑑賞。
出し物はアンデルセンの「しっかり者の錫の兵隊」。
(私が子どもの時読んだタイトルはこうだったと思う。
多分、講談社の少年少女文学全集)
演出が素晴らしかった!

アンデルセンにそっくりの俳優が出てきて、アンデルセンその人
として語り始めるうち、いつのまにか彼は子どもになり、
寂しいからみんなと一緒に寝たい、と言って、観客全員を舞台の
ベッド(膨らむと、実は白い大きな丸いテント)に連れて行きます。
テントの中にはたくさんの小さな座布団が置いてあって、
そこに腰を下ろすと、今度は例のアンデルセン氏が
小さな台の上に切り紙の人物や舞台装置を並べてお話を
始めます。台の真中に光源があり、人物も舞台も拡大されて
周りのテントに映ります。
私たち観客はまさに話の真っ只中に入ってしまうわけです。
私たちは暗渠を流れ、海に流れ込み、魚のおなかの中に
入ってしまいます。
360度スクリーン(プラス天井も!)となったテントと
様々な色の光を使った、光と影の大スペクタクル!
兵隊の恋するバレリーナの本物も現れて踊ります。
アンデルセン氏はいまや錫の兵隊自身です。

この演出の中に、「語り」の世界も取り込まれている、と
感じたのは、きっと私ばかりではないと思います。

雨ばかりだったドイツ滞在でしたけど、帰りはただ一度だけ
月明かりに照らされた町のたたずまいがため息が出るようで、
ついシャッターを切ったのでしたが、暗すぎて
写ってない可能性の方が大?かも知れません。
ああ〜、みんなに見せてあげたかったよ〜!

というわけで、23日はおしまいです。
                                                                      
                                                                     
2001年11月24日(土) 

今日はベヒシュタイン二百歳の誕生日!  
 
ベヒシュタインさま、おめでとう!

 今年は特別のお誕生日です。あなたのために国際シンポジウムが開かれています、やっと! 今年はベヒシュタイン・イヤーとして一年中、あなたや童話に関した催しが開かれているし、今晩はランツベルク城で今回創設されたチューリンゲン童話伝説賞の授賞式があります。賞の名称はあなたの名前を冠して「ベヒシュタイン賞」と名づけられましたよ。本当に記念すべき特別のお誕生日です! 心からおめでとう!

 

10:00〜   マイニンゲン散策―お城の入口に集合。ベヒシュタインの住んだ家、文学博物館、ベヒシュタインの泉その他、彼にゆかりの深い各所を案内人つきで散策、最後に公園墓地のお墓にお参りして、彼の二百歳の誕生日である今日、各自赤いバラの花を一本ずつ捧げるというプログラムでした。
  
  私は8月にマイニンゲンを訪れた時に全て回っていたし、朝食に出て行ったら、外は雪で真っ白。この寒い中を2時間半も歩き回ったら、引きかけている風邪が本格化してしまうぞ、と思いパスしました。土曜の午前中はまだお店が開いているので、もう一度古書店に行き、それから木曜日に見つからなかったおみやげを探すことにしました。

      私はお城の前の中華料理店で昼食を取り、午後のプログラムへ。このお店は夏にここを訪れた時大発見したものすごくおいしいお店。今までドイツ語圏で食べた中華料理店で一番おいしい!日本の中華料理店と比べたって負けないと思う位。こんな小さなドイツの町にこんなおいしいお店があるんて、嬉しくなってしまいました。値段は少し高めだけれどこの味とこのサービスなら大満足!    


         

14:0018:00 ワークショップ  

                                          
           

★まずはメイン会場であるブラームスホールに集まって、ワークショップの進め  方等について説明を聞き、いよいよそれぞれの会場へ。
  ワークショップは9つ。時間は2時間半。私はワークショップ2.「ムゼウス、ヘルダー、グリム兄弟、ベヒシュタイン」へ。私たちの会場はお城の図書室です。

★ヴッパタール大学のブルーム先生の指導のもと、12人ほどがこのワークシップに参加しました。

■まずメルヒェンの3つの分類、

1.民族の伝統、口承文学(語り)としてのメルヒェン(昔話)
2.書き留められて読み物となったメルヒェン(つまり本としての メルヒェン)
3.創作文学としてのメルヒェン

      とそれぞれの問題点について勉強しました。

童話研究で一番問題なのは、1と2が混同されていること。グリムのメルヒェンは本となったメルヒェンなのだけれども、これが口承メルヒェン、つまり語られたメルヒェンがそのまま姿を現したものと、思われてしまっている。グリムの「子どもと家庭のための童話」はずっと口承メルヒェンの理想を表現しているとされてきた。

口承メルヒェンには本来、特定の作者もいないし、また話も固定されていない。基本の型だけがあり、語り手は自分が受け取ったように、あるいはまた新たな解釈を加えて、語り継いで行った。特定の教育目的もなく、楽しみのために語られた。

 けれども、それらのメルヒェンが文字に固定されると、本質的に全く違ったものになる。固定されたことによって、特定の作者が生まれ、また固定されることによって、一般に語りのメルヒェンと信じられているものを、その時代の精神で切り取ったものとなる。

 私には、この混同を探っていくことで、ベヒシュタインが時代の研究者から評価されてこなかった原因の糸の一本がほぐれるのでは、と思われました。

 

 

   

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