2.マリアプファル(Mariapfarr)、オーストリア  2002.7.20〜8.10

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 丘の向こうは空              丘の向こうは山              マリアプファル全景


2002
720日(土)

   マリアプファルへ出発する今日は、ウィーンへ来て以来、初めてのよいお天気。絶好の旅日よりだ。

まず一時間ほどアウトバーン(Autobahn。これも日本語に入ったドイツ語の一つね)を南へ。20世紀前半、ウィーンの富裕市民層の避暑地として有名になったゼメリンク(Semmeling)に入る。ここはヨーロッパ初の山岳鉄道が敷かれた所としても有名だ。海抜は千メートルくらいだろうか。空気の香りも味も違う。一休みして気持ちのよい空気を吸う。

そこから西に折れて、両側にタンポポの咲いた野原、とうもろこし畑や麦畑、その向こうの山々を眺めながら、快調に走る。運良く渋滞もなし。大きく広がった青空に綿雲が浮かんでいる。出発してから4時間ほどでマリアプファル(Mariapfarr)に着いた。

マリアプファルは海抜1,100m。ルンガウ地方を覆う大きな高原の上にある小さな村。周りの山々は2000m級なのに迫っていないので、景色がとても優しい。野原と森、ベランダや窓辺に花をいっぱい咲かせた、アルプス地方特有の村の家々、遠くで周囲を囲む山々。

待ち焦がれていた3週間!心の赴くまま、う〜んとのんびり過ごすゾ〜。しばらくは山の空気で疲れるだろうけれど、その後どこまで元気になれるか楽しみだ。
 

20027月21日(日)〜
    プロバイダーにつなげないまま来てしまったので、やっぱりHPが気になる。夢にまで見てしまった。でもここには残念ながらInternetcafeはない。火曜日になって、ひょっとして近くの村にInternetcafeがあるかも知れないと思いつき、Informationで尋ねてみる。すると、Cafeではないけれど、すぐ隣の銀行でInternetが使わせてもらえると言う! え〜っ、本当ですか?! ありがとうございます! 思いもかけなかった情報に急いで銀行にかけつける。二人の男の子が終わるのを待って、パスワードを入れる。持ち時間は一人20分。

わ〜、出た出た! 普通のページは文字化けしているが、掲示板だけは日本語が表示されている。読んでみるとGeorgeさんが、引き続き大活躍。Georgeさま、本当にありがとうございます。畏れ多くてとても足を向けては寝られませんので、日本とは正反対の西へ向けて寝ております。

そしてGeorgeさんの呼びかけにのって書き込んでくれる人たちが嬉しい。ローマ字でも私も書き込みをしよう。でもこの日は一生懸命書き込んでいるうちに、バッチーン! 時間切れで全部消えてしまった。       (; ;)」

ここは転地療養地と謳っているだけあって、空気が特別粗い、あるいはきついのか(このきついとか粗いとかは、具体的に空気の成分がどうなっていることなのだろう? すごく知りたい!)、慣れるのに時間がかかる。一日中何となく疲労感があり、後頭部のうなじの上の部分が窒息しそうな感じ、つまり酸素が欠乏している感じがする。

休暇では絶対に頭で予定を決めないで、全て身体の声を聞いて決めることにしているので(つまり自然に湧いてくる気分に従う)、食事に行きがてらの散歩、食料品などの買い物、テレビ、読書etc.で過ごす。ここに来た目的が、ここの空気を呼吸して血液の成分の変化を促すこと+ストレスから解放されること、なので、ここに来ただけですごく満足してしまって、今のところ、さらにまたどこかへ出掛けようという気分にならない。新鮮な空気と色鮮やかな自然の中で、気の向いた事だけをして過ごす。一年間に3週間だけ本当に一人になれる日々。出会う人たちとの小さな会話、人間観察、読書、テレビ、散歩・・・。みな自分との対話に戻ってくる。

 

200289日(金)
 今日はマリアプファル滞在最後の日だ。村の中心、マリアプファル教会のガイドつき見学ができるというのを知って、申し込んだ。

 午後4時に教会の正面扉の前に集合。12人集まった。観光客だけでなく、近くの村から来た人、マリアプファルの住人もいる。ガイドは七十代後半の女性。この教会とマリアプファルを心から愛している彼女の気持ちが伝わってくる、熱のこもった、分かりやすく、興味深い説明だった。2時間もの間、彼女は立ちっぱなしで、私たちの質問にも快く応じてくれた。参加者の一人との会話から推察すると、彼女はマリアプファル出身で、昔近くの学校の先生だったようだ。
 ローマ時代、ザルツブルクへ抜ける道筋として使われ、当時の道標が発見されること、当時の石の1枚が教会入り口の階段下に使われていること、この教会が最初に建てられたのは13世紀だったこと、教会の前部に残る古いフレスコ画、その絵の意味、増築の歴史、「聖しこの夜」の作詞をした副牧師の話、19世紀まで巡礼地として栄えたこと・・・専門家に説明してもらうだけで、同じ教会が、ローマ時代、中世から現代まで、その中で生きた人々と共に、大きな時間と空間をはらむ歴史の生き証人として輝き出した。素晴らしい時の旅だった。

 ショッキングな印象を受けたのは、地下の礼拝堂の十字架上のキリスト像。ここは両世界大戦の戦死者を追悼するための礼拝堂になっている。キリスト像は全体が黒く皮膚は原爆に遭ったように至る所、裂け、ささくれ立ち、垂れ下がっている。信者でない私にさえ、磔になったキリストの心と肉体の苦しみが迫ってくるようだ。目も見開いたままだ。

1680年の作で、像の表面に皮を巻きつけ、それを裂いて垂れ下がらせたもので、この制作方法を取っているのは、この像が唯一だそうだ。現代作品と言われたらそのまま信じてしまいそうな斬新さだ。

 

                       「旅日誌2002」 3.ザルツブルクへ

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