ウィーン・アラカルト・

 グリルパルツァー生誕200年

 マリアヒルファー・オペラ劇団誕生!

 フラクトゥルム(高射砲塔)

  ウィーンが贈る新作ミュージカル「フロイディアーナ」

  フンデルトワッサーの美術館「クンストハウス・ウィーン」  

  ちょっと覗き見、ウィーンっ子のこんな生活、あんな生活

 

 

♪グリルパルツァー生誕200年  オーストリア最大の劇作家

 <記念展覧会 『グリルパルツァーあるいは“事実の中の真実”』>

     会場:ウィーン市歴史博物館、カールスプラッツ

     期間:1991年2月14日〜6月16日

     開館:月曜日を除く毎日、9:00〜16:30

 

  オーストリアの生んだ偉大な劇作家フランズ・グリルパルツァー(1791〜1872)の200年記念展が、2月14日から6月16日までウィーン市歴史博物館で開かれている。モーツァルト没後200年と重なるため、大々的なモーツァルト記念行事の陰に隠れてしまった感があるが、劇作家としての業績から見ても、またオーストリア的な内的矛盾の体現者としても、忘れてはならない存在である。今回の展覧会は、特にグリルパルツァァーが作家として持つ意味および「オーストリア精神」の特質を分析することに重点を絞り、それを明らかにするため、生涯および作品中における現実の様々な側面を、そこに内包される矛盾において把握しようと試みている。会場は生涯の道筋に沿って区切られ、各時期の肖像、多数の自筆作品、挿絵、日記からの抜粋などが展示されている。

                 *

  フランツ・グリルパルツァーは厳格な弁護士の父と音楽好きの母との間に生まれ、ウィーン大学で法律を学んだ。父親の死による経済的必要から1814年には財務省に入って役人として勤務しながら、シェークスピア、シラー、ゲーテを熱心に研究、劇作家としてのデビューを目指した。1817年悲劇「祖先の女」によって大成功を収めて以来、その作品は次々と帝室劇場で初演された。「サッフォー」(1818)では偉大なギリシャの女流詩人の姿を借りて世間の人々と感情を分かち合えない精神人の苦悩を描き、高い評価を得た。

  史劇「オトカール王の栄華と最後」(1825)では13世紀オーストリアに題材を絞り、断絶したバーベンベルガー家の領地とドイツ国王位を狙うベーメン王オトカールと、最終的にドイツ国王となるハプスブルク家初代ルドルフ伯との闘いを描きながら、留まるところを知らない野心と権力欲に憑かれたオトカールにナポレオンを重ねてその宿命を描き、ルドルフには理想化された啓蒙専制君主を体現させている。しかし従来とは異なり、グリルパルツァーの英雄たちは典型からはずされ、内的葛藤に引き裂かれ苦悩する人間として捉えられ、また女主人公たちも単に父権制社会の中で運命に翻弄される存在としてではなく、たとえ苦悩の後破滅への道しか残されていないとしても、その運命を自らの決定として積極的に担っていく行動する存在として描かれている。

  1838年の「嘘はご法度」の上演で初めて不評を買ったことが、それまでの作品上演禁止などの失意を決定的にし、以後作品の発表を拒否、孤独な生活の中で研究に打ち込んだ。晩年には再び高く評価されるようになり、それまでの絶望を埋めることはできないまでも静かな喜びのうちに81才で世を去った。

時代の要求と内的な自己実現への渇望との葛藤を描きながら、その渇望は決して満たされ得ないという諦念の認識に立っている点では典型的なビーダーマイヤー時代の知識人と言えるが、内的渇望の烈しさ、それまでにはなかった鋭い心理的手法、自らの生きる時代、民族、共同体への大きな関心を見ると、そのスケールははるかに大きいと言わねばならない。新しい様式を生み出しはしなかったが、バロックの遺産を受け継ぎながら古典主義とロマン主義の統一を目指し、自然な形で新時代への道を開いていった。特にオーストリア演劇をヨーロッパ精神の水準にまで高めた功績は大きい。抵抗し難い芸術への欲求と理性、人の世への嫌悪と憧れを悩み通したグリルパルツァーは、欲求と分別との間で躊躇してしまうオーストリア精神の具現とも言える。

  自らの置かれた社会的状況の類似性を唯一グリルパルツァーの生涯の中に見出したカフカは、しかし次のように述べている。「手本にはしたくない。彼は後世が感謝すべき悲惨な例なのだ。なぜなら彼は後世のために悩んだのであるから」

  その他の作品に、三部作「金羊毛皮」、悲喜劇「海の波、恋の波」、童話劇「嘘はご法度」、遺稿「リブッサ」、「ハプスブルク家の兄弟争い」、散文「哀れな辻音楽師」などがある。(「維納倶楽部」1991年4・5月号)

 

 

♪マリアヒルファー・オペラ劇団誕生!

  このほどウィーンにユニークなオペラ劇団が誕生した。若い音楽家たちの研鑚の場がなかなかない現状にあって、若い歌手や器楽奏者に本格的な舞台で研鑚を積むチャンスを与え、同時に合唱団として実際にオペラ、オペレッタ、ミュージカルの創造に参加する体験を通して、青少年の間に積極的な興味、関心を呼び起こそうという目的で創設された。

  若い世代がオペラに関心を持たないという風潮は、オペラの殿堂ウィーンにもあるということになるが、これを憂えてユニークなオペラ・アンサンブルの設立を思い立ったのがカナダ人とイギリス人であるところが、いかにも国際都市ウィーンらしい。

  創立者はオペラ歌手のアンドレア・メリスさん(カナダ)と、彼女の夫であり作家のローランド・ホルト=ウィルソン氏(イギリス)。メリスさんはアン・デア・ウィーン劇場の歌手指導者であり、自身も室内オペラほか各劇場で歌っている。

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  創設披露は、既に1991年5月27日、モーツァルト/モルターリの一幕物「ロカ・デル・カイロ」(カイロの鵞鳥)のコンサート公演で行なわれたが、本格的なオペラ公演は今回が初めて。12月中旬の二日間、市内マリアヒルファー通りにある消費者連盟ホールで初興行として、モンテヴェルディのバロック・オペラ「オルフェオ」を上演した。

  美しい歌と愛の力で冥界の妻に会うが、冥界を出るまで振り向いてはいけないという約束に耐えられず、再びかつ永遠に妻を失うという有名なオルフェウスの題材を扱ったもので、オッフェンバックやグルックによるものと違い、今ではほとんど上演されないがゆえに、大変美しく、しかも分かりやすいこのオペラへの関心を再び呼び起こしたいという願いを込めて選ばれた。

  歌手やオーケストラのメンバーの国籍は実に様々。あちこちの小さな劇場でソリストとして、また大劇場でコーラスのメンバーとして活躍を始めたばかりの若い人たちである。コーラスはギムナジウムの生徒たち。舞台は張り出し舞台で、三方に客席がしつらえてある。衣装はごく普通の日常着で、主な歌い手のみが単純だが効果的な単色の衣装をつけて歌う。オルフェオは茶のスエードのジーンズにベージュのスポーツシャツ。使われる小道具は竪琴と花嫁の花冠のみ。冥界の表現は黒い壁と赤い布のみでなされる。天上の音楽のようなデリケートで心に染みるバロックのメロディーとごく単純で象徴的な舞台とが不思議な調和を見せる中で、素晴らしい実力を持った歌手たちの熱演に、私たち観客はなおのこと引き込まれていった。生徒たちの合唱もなかなかのもので、聴衆の目にも、彼らの歌い、演じる喜びが明らかに伝わってきた。実力と大きな努力とが、皆で一体となって一つのものを作り上げる熱意と喜びの中で増幅されて、今回のような素晴らしい公演が可能になったに違いない。思いがけない深い満足感が残った。彼らの努力にエールを送り、将来の発展を見守りたい。(「維納倶楽部」1992年2・3月号)

 

 

♪フラクトゥルム(高射砲塔)  ヒットラーの置き土産

ウィーンは音楽の都であるだけでなく、建築の都でもある。メインストリートのリンク(旧市街を囲む環状道路)を歩けばバロックやルネッサンス、ネオゴシックの壮麗な建物が並び、市内至るところにユーゲントシュティル(アールヌーボー様式)の美しい家屋が見られる。ウィーンは建築史のショーウィンドーのような、目にも楽しい街である。

  その美しい街並の調和を乱すかのように、市内のあちこちに巨大なコンクリートの塔がニョッキリそびえている。この得体の知れない怪物は、広い公園の中にも場違いな様相を見せて立っていたりする。夜更けに車で近くを通ると陰気で異様な雰囲気が漂い、思わず目をそらしてしまう。

  「フラクトゥルム(Flakturm)」と呼ばれるこの塔は、マリアヒルファー通りに近いエスターハージー公園やシュティフト兵舎、アウガルテン公園、アーレンベルク公園など市内に6つあり、誰の目にも止まる存在であるが、一般の案内書には無視されている。

  フラクとは高射砲の略、トゥルムは塔、すなわち空襲から街を守るための塔で、第二次大戦中の1943年に建てられた。“建築主”はヒットラーで、「勝利」の暁には大理石で覆い、建築記念物として後世に彼の偉業を伝えるはずだったという。二つを一組として三組建造され、それぞれ高射砲塔とそれより少し小さい司令塔からなっている。空襲の際には住民の避難所としても実際に使用された。現在は一つが軍事用に、もう一つは水族館に生まれ変わって使用されているが、それ以外には利用の当てもなく、ただそこに立っているだけである。

  市の中心から20分ほどにあるアーレンベルク公園のフラク塔は、高さ44メートル、縦横それぞれ57メートルの立方体である。最大の攻撃にも備えるべく壁が恐ろしく厚く造られており、6塔合わせて15万立方メートルのコンクリートが使われた。70年代後半、ドナウ河畔の国連ビル建設に使われたのと同じ量だという。取り壊すためには破壊するのが手っ取り早いが、この場合多量の爆薬が必要で、そうなると周囲の住居家屋も塔と運命を共にすることになる。全くやっかいな戦争の置き土産である。

  1990年、何とか使えそうなアーレンベルクとエスターハージー公園にある二つをウィーン市がしぶしぶ国から受け取り、以来再利用のアイデアに知恵を絞っている。国際コミュニケーションセンターがいいとか、見えないように包んでしまえとか、今のところアイデアは多いが現実離れしたものばかり。ロープウェイをつけて屋根を展望台に、下をレストランや喫茶店にするというというのもある。

  都市建築上から見ると、三組の塔は当時の人口密集地域を取り囲んでおり、ウィーン市の発展史上重要な証人の役割を果たしているため、できる限り概観を変えないで再利用を望む人も多い。

  それにしてもこのやっかいな怪物を上手に利用する手はないものだろうか? 何かよいアイデアがあれば、どうぞ編集部まで。(「維納倶楽部」1992年4・5月号)

 

 

“フロイディアーナ” ウィーンが世界に贈る新作ミュージカ

 「キャッツ」、「オペラ座の怪人」、「42nd ストリート」など近年“ミュージカルの都”としての地位をも確立しつつあるウィーンに、ついにメイド・イン・オーストリアのミュージカルが誕生した。昨年12月19日、大成功のプレミエでいま世界のミュージカル・ファンの注目を浴びている「フロイディアーナ」である。

  一青年がファンタジーの中で、近代精神分析の父といわれるジークムント・フロイトの有名な症例を体験しつつ、自分自身を発見していく過程がストーリーとなっている。(ちなみに、1938年にナチスによってウィーンを追われロンドンに疎開するまで、フロイトはこの地を生活と研究の場としていた。)

  フロイトの5つの症例を示すシーンが、サーカスやナイトクラブ、地下鉄のトンネルなどを舞台に現れる。めくるめく光の中、シンプルで力強いロックサウンドと、簡潔でエネルギー溢れる振り付けが、観客を幻想に酔わせながら深層心理の世界へと引きずり込んでいく。

演出は、公演会場となっているアン・デア・ウィーン劇場の監督であり、同時に他の二つの劇場を擁するウィーン劇場連盟総監督のペーター・ヴェック。台本はイギリスとオーストリアのシナリオライターの共作である。主役のエリックには心理的な演技が要求されるため、舞台俳優のウルリッヒ・トゥクルが選ばれ、連日歌の特訓を受けての登場となった。

歌唱指導にあたったアンドレア・メリスさんは、「台本も曲も歌詞も、実際に稽古に入ってから全体の流れを見て新しいアイデアを出し合い、さらに書き変えられて行きました。したがって苦労も多かったのですが、それだけに真の意味で関係者全員が作り上げた作品になったと思います」と制作の喜びを語っている。

この数年間、ウィーンで人気を博したミュージカルは全てブロードウェイやロンドン生まれの作品であった。そして、今回の「フロイディアーナ」によって、ウィーンは初めて自らのミュージカルを世に問う街となったのである。このフロイトという最もウィーンらしいテーマの作品がスプリングボードとなり、クラシック音楽の都ウィーンがミュージカルのメトロポールとして、ニューヨークやロンドンと肩を並べる日が一日も早くやってくることを期待したい。               (維納倶楽部、1991年2・3月号)

 

 

♪クンストハウス・ウィーン  フンデルトワッサーの美術館

童話のようなナイーヴな温かさを感じさせる変わった市営集合住宅“フンデルトワッサー・ハウス”は、いまやウィーンの観光に欠かせない名所の一つとなったが、そこからほんの数百メートル離れたもと家具工場に、このほど「クンストハウス・ウィーン(ウィーン芸術館)」が誕生した。

“直線という誤った秩序に抗する最初の要塞”として建てられたこの美術館は、知性化された芸術、機能主義化した建築から人間の営みとしての本性、人間もその一部である自然との調和を取り戻そうとするものである。行動する画家フンデルトワッサーの哲学、作品、生い立ちを紹介し、さらに自然な地面のようにゆるやかに波打つ床や、豊かな色彩、モザイク、曲線による内装・外装のかもしだす温かさによって、訪問者自身の内部にある自然への素朴な憧れを目覚めさせ、その憧れと一体化する歓びを身体でじかに感じ取ってもらおうと試みている。

二階と三階では常にフンデルトワッサーの作品が展示され、四、五階は内外の芸術家の展示会用に使われ、同じ哲学を持った芸術を広く世に問うための拠点となる。

庭に面したカフェ・レストランの椅子は百脚ともすべてスタイルが異なる。波打つ床で椅子がガタガタするなら、平らにするための木のくさび(それぞれにフンデルトワッサーの言葉が書かれており、お土産として持って帰れる)が用意してある。床は石でできているのに、持ち上がってくる部分を踏むと床から靴底に押し返してくる感覚が、不思議に森の小道を思い出させて気持がよい。“死んだ美術館ではなく、体験する美術館を”というモットーが強烈に体感できる。

人間の憧れを詰めたいわばグリムの童話のお菓子の家ともいえるこの美術館、夢のお菓子はあなたの目の前にある。食べてみれば捜していた懐かしい味がするはずだ。

                               (維納倶楽部1991年8・9月号)

 

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